冬の祭りに音頭をどうぞ
今月はクリスマス・ソング特集ということで誰にも期待されずぼちぼちやったが
最後はもちろんこれでしょう!
大滝詠一のクリスマス音頭!
前、友人に「クリスマス音頭はいつやるの?」と言われていたが
そりゃクリスマスイブに決まってまっせ、旦那。
さて、大滝詠一の素晴らしいところは異質な材料二つの共通点を見抜き、
マッシュアップするところであると思う。
例えばCobra Twistという曲では
洋邦のツイストソングを何十曲も引用し、一つの曲にしてしまっている。
それの最たる例と言えるのが実は音頭シリーズだと思う。
「大滝詠一は音頭にハマって迷走していました」みたいな記述をたまに目にするが
割と音頭を作ったのは自然な流れであるように思う。
何故ならば、第一にロックはもともとアメリカのダンスミュージックで
意外と日本びいきな大滝詠一は日本のダンスミュージックの音頭をロックと同程度まで拡張しようとしたのは容易に想像がつくうえ、
大滝詠一には洋の東西への一種の構造主義的な考え方、しかしそれが不可能であることへのニヒリズムが根底にあるからである。*1
実際、大滝詠一の音頭には「和」が前面に押し出されているものは無く、
むしろ「洋」をテーマとして前面に押し出している。
それを踏まえて、何故音頭を作ったか考えてみると
西洋等の異国の文化や価値観を完璧に理解したと思っている日本人を
音頭というツールで面白おかしく茶化し、
ロックをそのまま取り入れようとする(当時の)日本のミュージシャン、
それを有難がっている日本人たちに
「僕たちはこれくらいの偏見を持っているんだよ。
日本人が西洋の文化なんて分かりっこないの!」
という風刺的なメッセージを発しているように感じるのだ。
で、今回紹介するクリスマス音頭にもその傾向が顕著に表れている。
これも例に漏れず、ごらんのとおり西洋を題材にとった音頭。
クリスマスは冬の西洋のお祭りだが、それに夏の東洋のお祭りの曲を混ぜたわけだ。
この時点でもう大きな矛盾が出てしまっていて、この曲が珍妙になる未来は約束されている。
しかし、それを分かり切ったうえで書かれただろう次の歌詞。
今日は楽しいクリスマス
年に一度の 〃
晩から朝迄 〃
灰から火迄 〃 (ソレ)
遠路はるばるクリスマス
南蛮渡来 〃 (キタサット)
奇妙きてれつ 〃 (アサナット)
何故かしらねど 〃 (ウミヨット)
七面鳥食って飲んで騒ごう
七面鳥食って飲んで騒ごう
ジングルベル ジングルベル ジングルベルよ
そう、クリスマスというものは「年に一度だぞ!」「晩から朝まで騒げ!」などと
我々は楽しんで過ごしているわけだけれども、
それは実際には「南蛮渡来」であって「奇妙奇天烈」であって
その由来さえよく知らないわけである。
そのあとにくる「七面鳥食って飲んで騒ごう」のなんと空虚で浅はかなことか。
そこにあるのは本来は恐らく謝肉祭的な側面があって神聖な心持で食べられるだろう七面鳥を
お酒のアテとして大量消費する日本人の姿である。
商店街がクリスマス
ケーキ屋さんが 〃
テレビラジオが 〃
夜のネオン街も 〃 (ソレ)
戦後変わったクリスマス
天下晴れの 〃
日本すみずみ 〃
何処にいるのか 〃から揚げ食って飲んで騒ごう
カップうどん食って飲んで騒ごうジングルベル ジングルベル ジングルベル
街を歩けば、テレビを付ければ、お店に入ればクリスマスソングが流れだす。
一見すると西欧の様子と変わらないが
しかしそれはどうやら日本古来のお正月様のような扱いを受けている。
そして、我々が飲んで騒ぐにはもはや七面鳥でなくてもよい。
チープな唐揚げやうどんで十分。
日本には元のクリスマスの面影はなくなってしまっているからだ。
我々は、ちょうどこの曲のように、珍奇なクリスマスを楽しんでいるのだ。
この数年くらいでようやくこんな話題をTwitterで見かけるようになったが、
大滝詠一は70年代の時点からずっと日本を皮肉めいた目で見続けていたわけである。
それを受け止めながら、この国にあってどんな曲を作るべきかを突き詰めたのが
80年代の大滝詠一なのかもしれない。
おっと、このブログでは真面目なことは一切書かないつもりだったのに
めっちゃ熱弁をふるってしまいました。失敬失敬。
では皆様も日本流クリスマスをごゆるりとお楽しみください。